December 13, 2008

日本語が亡びるとき:読んだ。

僕、鈴木は英語ができない。
読むことはできる。書くことはできない。
そして決定的な欠如として、会話ができない。
正確に言うと、聞き取れない。言いたいことを組立できない。(つまり、書けない。)
例外としては、字幕やテキストなど、日本語が併記されている場合、聞き取れる。

日本語と英語がうまく紐づかない。
英語の「切れ目」を認知できないのである。

特に米国系の人がガーっと喋くると、まったく認知できない。
ゆっくりしゃべってくれとお願いしても、やはりダメ。

例外として、欧州系など非英語圏の人がしゃべる英語は認知できることが多い。

たとえば「マーケット」とう単語があるとすると英語では「マーキッ」としか聞こえないがイタリア語訛りの英語だと「マルキット」と聞こえるので、綴りのアルファベットと照合できるようだ。

結局僕の英語の認識はテキストをイメージしているものらしい。
ただし外国において英語を使わなければいけない環境に陥ると
テキストイメージからの翻訳・変換の速度が速くなるらしい。
が、日本語環境に浸っているかぎりは遅くなるばかり。

それでも外国にて困った状況になったときに
なんとか英語を使い始めていたときを振り返ると、
普段行っている会話を、子供の会話レベルまで落とした
単純な論理に戻してやることでなんとか凌いでいるようだ。

逆に普段、日本語で会話する際、自分はひとつづきの言葉に
言外の意味を大量に含ませてしゃべっているのだ。
これが英語だと邪魔になる。混乱のもとになる。

「日本語が亡びるとき」で作者が語る
「豊穣なる日本語」の価値、という点には共感するところだ。
だが、上記した己の性質を振り返るに、
自分にとって日本語で考えるということは、混沌から抜け出せておらず、
まっとうな論理構築ができていないことが多いように思われる。

そして単純な論理に戻れるとき、戻るとき、これはまた英語だけでなく、
htmlやPHPやActionScriptに向き合うときも同じだったりする。
かような言語でも僕は「なんとか読める。書けない。話せない」状態である。

「日本語が亡びるとき」で紹介される、
明治より英語を日本語の公用語にしようとしていた人たちも
僕のような「出来の悪い」学生に対して
似たようなネガティブイメージを持っていたような気がしてならない。

Posted by szk at December 13, 2008 2:58 PM SZK